『讃岐路殺人事件』内田康夫
私はあまりミステリを読まない。というのも、現実に近い物語はあまり好みではないからだ。
憂鬱な話であればこちらが憂鬱になってしまうし、殺人やら事件やらなんて読むとしばらくはこの世の汚さについて考え続けてしまう。
さてそんな私がいかにもミステリ、推理ものの王道とも言えるこの本に手を出したのかという話にもなるが、それは父方の祖父の遺品であったからだ。
私とは逆にミステリ好きだった祖父は枕元に大量の本を置いていた。それを私が譲ってもらえたというわけだ。
学生ともあれば時間はある程度ある。朝の読書時間だってあるし、休み時間も移動時間もある。まあそんなに時間があれば普段はあまり読まない本を読んでみるのもありだろう。
読み終えて調べてみて分かったのだが、この本はシリーズ物だった。なんとなく察してはいた。
ミステリにはよくある連作系だろうなあと思っていたらその通り。できれば最初から読みたいと思ってしまうから途中からというのが少し悔しい。
内容に触れた感想を書きたいところではあるが、ここで私の欠点が露呈してしまう。
私はミステリを読んでも「ふーん」「へえ」くらいの感想しか抱けない人間なのだ。これがミステリを読まない理由の一つでもある。
無論トリックや謎が解けていく演出はすごいなあと思うのだがそこ止まりなのだ。やはりリアリティがある読んでいて理解しやすい文というのはそれだけあっさり入ってきやすいということか。
実際この本を読んでいても特段「この描写が良い」とか「この演出が……」と思うようなところを見つけることができなかった。
むしろ、そういうものがない方が王道ミステリ小説としてはいいのかもしれない。
奇をてらったものならそういうものが多い方がいいけれど、それは純粋なストーリーを覆って修飾するものであって、ありすぎると逆にごちゃついて分かりにくくなるのではないか。
そうすると、王道ミステリ小説としてはストーリーを理解しやすい、分かりやすい表現や文体というのが求められるわけだ。
この本はそれが満たされている。特別印象深いものなどはないがストーリーは分かりやすく、謎が明かされていく過程も明確。
「物語を読む」読書としては非常に良質なものとなった。
だがしかしいつも私がしているのは「表現を読む」読書だ。
ストーリーも大事だが、それを彩る文章たちが私は何よりも好きなのだ。まあ、たまには「物語を読む」のもいいか、なんて思う。
祖父もこの本を読んだのだろうか。どう思って読んだだろうか。
夜の暗い中、読書灯の淡い光を頼りに活字をなぞる祖父。
老眼鏡をかけ、1ページずつ、1ページずつ。
私も少しずつ、祖父の遺した本という足あとをなぞっていきたい。