『命売ります』三島由紀夫
急に何もかも自暴自棄になって吹っ切れることはあるだろうか。たぶん、多くの人があるだろう。だがこの本の主人公はなにか、どこか違う。
この世ってこんなものだ、と思って死にたくなって、命を捨てるのに失敗した。そして彼は命を売りに出す。あまりに冷静で、そして度胸があるゆえに、依頼は成功するが彼の希望は叶わない。
読んでいるこっちが困惑するような目まぐるしい展開の中でも彼は基本的に冷静で、大したことは起こっていないような、まるで夢だったかのようなあっさりとした流れを起こす。
この本全体を通して主人公の判断力、思考力は凄まじい。だからこそ余計にそれが真実だったのか、何が真実だったのかよくわからない構造にもなっている。
命を売る、という行動から主人公が得体の知れない出来事に巻き込まれていき、読者にも主人公にも予想の付かない展開を迎えるという素晴らしい小説だった。
そして相変わらず三島由紀夫の描写は最高だ。今までに読んだ『金閣寺』『仮面の告白』『潮騒』などなどとはまた異なる方向性の美しさだと私は感じた。
時間がなくあまり読み込めていなかったからだろうか? とも思ったが、この小説は私が読んだ今までのものの中でも一番ストーリー性に優れているからかと思う。
やはり今回の私は表現よりもストーリーを読んでしまっていたのだ。
私の思想として、『表現を読む』読書と『ストーリーを読む』読書は分けるべきであり基本的には『表現を読む』読書を好んでしているのだが、今回はどうやら無意識的にストーリーを読んでしまっていたらしい。
小説を読む上でストーリーというものを深く読みすぎると細かな描写、作品全体の雰囲気を見逃してしまうことがある。そのため避けているのだが、今回は三島由紀夫の魅力的なストーリーの構造に負けたということだ。
最初から引きが強く、そして毎度大きな事件が起こりそれは悪化していく、状況は度々変化し裏に渦巻く不安感、何が起こるのだろうという高揚感を抱かせる。上手い物語だ。
私も趣味で小説を書いている者として参考にしたい、そう思うほどのものだった。参考にできるほどの技量がないのだが。
と、三島由紀夫ばかり読んでいるように思われそうだが実はそんなことはなく、ライトノベルから何から何まで何でも読む。本選が渋いなんて言われがちだが、そろそろ最近流行りの本なんかも読んでおきたいところだ。
『余命10年』小坂流加
泣かせにくる小説が苦手だ。いや、誤解しないでほしい。感動系小説が苦手なわけではない。わざとらしい感動エピソードを盛り込んでくる小説が苦手なだけだ。
ほらこれ悲しいでしょ?泣けるでしょ?みたいな風に感動の押し売りをしてくるもの。いやその意図見え見えだから、と思う。がこの小説にはそれがない。
悲しくなる、切なくなる場面はあっても、そこに決してわざとらしさはない。むしろそこにはリアルな感情がある。
二十歳で主人公は難病にかかり余命十年と宣告される。そこからの歩みは小説的ではなく、ゆっくりと、リアルに過ぎていくものだった。
楽しい日々もあれば嫌になって自暴自棄になって余計に苦しむ日々もある。
ロマンチックで涙を誘うような切ない雰囲気や「生涯君だけを愛する」みたいな最期の恋愛がないわけじゃない。ずっとそんな雰囲気ではないというだけだ。
主人公の人生が、ありのままに、飾られることなく綴られていると感じた。
読み終えてどんな作家さんだろうかと調べて納得した。実際に闘病生活を経験され、この本が刊行される前に亡くなった方だったのだ。
だから、と言ってはいけないかもしれないが、この小説には命に限りのある人の切実な思いがのせられていると感じた。
たとえ余命が十年と宣告されたからって、その十年間ずっと落ち込んでいるわけではない。外で動き回ることも難しいし、もちろん治療も受けるし、病院の中の景色は見慣れてしまうほどだろう。
でも退院すればある程度の自由は得られる。ただし治ったわけではないから制限はあって、時には発作に苦しむこともある。そんな闘病生活のリアルが描かれていると思う。
リアリティではなく、リアル。本物なのだ。
最近のこの世界では自死を望む人も少なくないだろう。そんな中、死に抗いたくても抗えない、受け入れたくても受け入れられない人もいる。よくある言葉は自死を否定してこういった病気の人達と比較し命がもったいないなんて言ったりする。
それは違う気がするなあと思いつつも、実際それ以外になんと言っていいか分からないのが悔しいところである。
命。私達が向き合っているようで向き合っていない、知っているようで知らない概念。この本を通してその欠片が見えたような気がしている。
『潮騒』三島由紀夫
純粋な愛と恋。そんなものが存在するのか。
この本には極めて純粋な恋物語が存在するのだが、それとともにどこか官能、というか、ただ純粋ではない雰囲気も感じられる。
物語のところどころで性的描写のようなものがありはするのだが決して発展しない。
最近の少女漫画やライトノベルとは大違いな純粋さ(これ以上言うと怒られそう)である。
島の中で繰り広げられる恋物語なのだが、この住民は島の美しさを信じているとか、方言とか、とにかく外からはほとんど隔絶された場所らしい。
なんというかこの本は理想と妄想の塊のようにも思うのだ。
のどかな島の中で、男女が健全な交際を保っている。何にも負けることなく、二人は愛を貫く。
まあそれはいいのだが、そんなものが実際に存在するのかというのは……まあ言うまでもないかもしれない。数少なそうなケースだ。
彼らの恋愛模様についてはあれだが、周囲の人々の行動はわりと一般的でよくあるもののように思う。噂をしたり恋敵がいたり、ただそれに負けない主人公たちがすごいだけか。
どうしても疑問に上がるのはなぜ主人公が彼女を選んだのかということであり、様々なサイトで語られていることでもあるが、それはもう主人公もわからないのではないかとすら思う。
恋愛ってそんなもんじゃない? と。一目惚れの描写がされているがどう好きになっていったか、なんて、本人も分かっているか謎なところだ。
性格だって自分の脳内で補完して「優しい人」と認識してしまうこともある。私は読んでいて違和感のあるシーンはあまりなかったのだが、人によってはとても不思議に思えるようだ。
そして相変わらず三島由紀夫の描写力、表現力は素晴らしい。言うまでもないのだが。
特に今回は情景描写が印象深く、島の中での話ということもあってか海に関する描写が多かった様に思う。
それがまた海の広大さを感じさせつつも登場人物の心情を反映させたものであり、その巧みさには感嘆のため息が漏れるほどだ。
さてそろそろ豊饒の海を読みたい、のだが、図書室に借りに行くのも四巻あっては分けて行かねばならないし、返却期限も考えて読まねばならないから時間に余裕がない今はなかなか行けないのである。
時間に余裕ができないものか、と思いつつ次は何を読もうかと思案する日々である。
『死はすぐそこの影の中』宇佐美まこと
私の中に眠る記憶は、私にどのような影響を与えただろうか。
この本を読むと、私の心の中にいたもう一人の自分を思い出す。多感で自分が特別だと思っていたかった中学生時代に作り上げたキャラクターだ。
誰よりも優しくて誰よりもかっこよくて、人を思いやり自分は凛として自分を貫く。それが私の理想像だった。つらいときにそのキャラクターにすがることもあった。
それを作り出したきっかけはなんだっただろうか。人は本当につらいとき、自分が責任を負いたくないとき、自分の中にもう一人自分を作り出して責任逃れをする節がある。
この本の中にもそんな例が出てくる。この小説は人間の深部に触れるような作品であると思った。
人間の自意識がもたらす行動、表れる性格。人が隠している狂気。作品が終わりに近づくごとに隠されていたものが暴かれていく描写。私はこの作品が好きだ。
タイトルの「死はすぐそこの影の中」というのも最終的に回収はされるのだが、個人的な解釈としては「自らが背後に隠している狂気や仄暗い真実」かなと思っている。
たとえ隠していたとしても、もうないものとして消し去ったとしても、自分の影の中に潜んだままの真実。
主人公は重く暗い過去を抱えた調律師の女性だ。その仕事の上で関わる人達、過去を詮索してくる記者などと関わっていくうちに彼女の「影」が見えてくる。
私にもあなたにも影はあるだろう。その中に潜む狂気は、他の人にも見えてはいないだろうか?
抱える過去は今の自分を形成する。たとえ消したいものでも、忌まわしいものでも、それが現在今ここに存在する自分の原料なのだ。私はそれを受け入れた。受け入れた上で諦めた。
過去を消すとは今の私を消すことでもある。私はそうはしない。
影に潜む狂気を受け入れ、そしてこれからを生きていくんだ。改めてそれを確信させてくれる本だった。
『仮面の告白』三島由紀夫
青春には血と汗が伴う。
たとえば自分の好きなものが他人とは違うおかしいものだったとしたら。逆に自分は皆が好きなものをどうしても好きになれないとしたら。私は諦めるだろうか。受け入れるだろうか。
そのままで生きていけるだろうか。あなたは?
ものにもよると言いたいところだろう。もしそれが、おかしいと言われるものが性的嗜好であったら? いまどきならLGBTなどと言われるものだろう。
あまり深く踏み込みたくはないが、個人的には、あくまで性的嗜好なのだから迷惑さえかけなければ他の人に文句を言われる筋合いはない、そしてそれを盾に弱者として意見するべきではないと思う。これ以上そんなことを言っては炎上してしまいそうだから控えておくが。
もし性的嗜好が人とは大きく違ったら、ということだ。細かな違いは一人ひとりにある。つまり世間一般的な人々は異性が好きで自分は同性が好きという、そういう大きな違いがあったら。
私はバイセクシュアルなためなんとも言えないが、大抵の人は社会からの疎外感を感じるだろう。
バイセクシュアルは「普通」に逃げることもできる。あれは偶然だったとも、異性を好きになることもあるという言葉で逃げることができる。社会に戻ることができる。
だが全く同性しか愛せないという人はどうなのか。今の社会では受け入れようという動きが多いけれど、受け入れられない人も一定数いる。それはまあ仕方がないとして。
自分がそういう少数者になったときどう生きるか。その葛藤がこの小説には綴られている。
その描写がひどく美しく芸術的で、そして限りなく文学的だ。
私の好む「表現を読む」読書に最適な本だと思う。ひとつひとつの情景描写が心情描写の役割も果たしており、ほんの些細なシーンさえも深読みすればすべてが繋がる。その深読みがまた面白い。
やはり自分ならではの解釈を進めていけるのが読書の良いところだ。三島由紀夫の本はいつも表現が美しい。そのどの表現にも解釈の余地があるのだ。
まだ『豊饒の海』を読めていないため、そろそろ読んでみたいと思っている。
それはそれとして、今度は恋愛小説やライトノベルも読んでみようか、というところである。
『シューマンの指』奥泉光
二度目になるが、私はあまりミステリを読まない。この本も祖父の遺品だ。
タイトルからして音楽小説かなと思っていたが、大当たりだった。
正直ミステリ要素より音楽要素、そしてさらに純文学のような要素が大きい。
シューマンについてや音楽についてはあまり詳しくないためほぼ流し読みのような形になってしまったが、知識のある方はうなずきながら読めるのだろうか。
情報無しで初めて読んだとき、私はこれをミステリ小説だとは思っていなかった。確かに謎解き要素がない、ことはない、かもしれないが。
それはミステリを読むときの「ふーん」という感情が湧いてこなかったからだと思う。
とすると、ストーリーの流れよりも描写の方に目がいっていたということにもなる。
つまり私はこの本で「表現を読む」読書をしていたのだ。私の好む読書方法である。
ストーリーももちろん魅力的だったがやはり私は文章のニュアンス、表現が特に優れていると感じた。美しい描写の仕方。人物の心情を切実に表す表現。これがこの本はすごく綺麗だった。
さらにミステリらしく、最後の展開があまりにも衝撃的。王道とは言い難い気がしたが、私の好みピッタリの本であったと思う。
さて、ミステリ好きの祖父はこの本をどう評価したのだろうか。私がこの本を高評価したのは、「ミステリ」というジャンルだと知らなかったからというのもあるだろう。
この本について調べてみると青春小説やら心理フィクションやら色々なジャンルが出てきた。個人的にはミステリよりもこれらのジャンルの方がしっくりくる。
本は一つのジャンルでは語れないものだな、と思う。それを読んだ人次第とも言えるか。
そう考えるとやはり本というのは素晴らしい。自分の思考が物語に大きく関わってくる。
この本のラストをどう解釈するか、そしてそれをどう感じるか。それはすべて私次第なのだ。
そして今日もまた本の中へ潜る。私だけの結末を探るために。
『讃岐路殺人事件』内田康夫
私はあまりミステリを読まない。というのも、現実に近い物語はあまり好みではないからだ。
憂鬱な話であればこちらが憂鬱になってしまうし、殺人やら事件やらなんて読むとしばらくはこの世の汚さについて考え続けてしまう。
さてそんな私がいかにもミステリ、推理ものの王道とも言えるこの本に手を出したのかという話にもなるが、それは父方の祖父の遺品であったからだ。
私とは逆にミステリ好きだった祖父は枕元に大量の本を置いていた。それを私が譲ってもらえたというわけだ。
学生ともあれば時間はある程度ある。朝の読書時間だってあるし、休み時間も移動時間もある。まあそんなに時間があれば普段はあまり読まない本を読んでみるのもありだろう。
読み終えて調べてみて分かったのだが、この本はシリーズ物だった。なんとなく察してはいた。
ミステリにはよくある連作系だろうなあと思っていたらその通り。できれば最初から読みたいと思ってしまうから途中からというのが少し悔しい。
内容に触れた感想を書きたいところではあるが、ここで私の欠点が露呈してしまう。
私はミステリを読んでも「ふーん」「へえ」くらいの感想しか抱けない人間なのだ。これがミステリを読まない理由の一つでもある。
無論トリックや謎が解けていく演出はすごいなあと思うのだがそこ止まりなのだ。やはりリアリティがある読んでいて理解しやすい文というのはそれだけあっさり入ってきやすいということか。
実際この本を読んでいても特段「この描写が良い」とか「この演出が……」と思うようなところを見つけることができなかった。
むしろ、そういうものがない方が王道ミステリ小説としてはいいのかもしれない。
奇をてらったものならそういうものが多い方がいいけれど、それは純粋なストーリーを覆って修飾するものであって、ありすぎると逆にごちゃついて分かりにくくなるのではないか。
そうすると、王道ミステリ小説としてはストーリーを理解しやすい、分かりやすい表現や文体というのが求められるわけだ。
この本はそれが満たされている。特別印象深いものなどはないがストーリーは分かりやすく、謎が明かされていく過程も明確。
「物語を読む」読書としては非常に良質なものとなった。
だがしかしいつも私がしているのは「表現を読む」読書だ。
ストーリーも大事だが、それを彩る文章たちが私は何よりも好きなのだ。まあ、たまには「物語を読む」のもいいか、なんて思う。
祖父もこの本を読んだのだろうか。どう思って読んだだろうか。
夜の暗い中、読書灯の淡い光を頼りに活字をなぞる祖父。
老眼鏡をかけ、1ページずつ、1ページずつ。
私も少しずつ、祖父の遺した本という足あとをなぞっていきたい。