『金閣寺』三島由紀夫
読み終えたあとの言い知れぬ感覚は、私のかさぶたを剥がすような――――いや、もっと、奥の方から掻き出すような不安感を引き起こした。
現代に生きる私のような、難解な言葉を苦手とする人間には少し重すぎる小説(本自体は軽いのだが)であったかもしれない。
この本を読んだ理由はとても単純なものだった。それは三島由紀夫という人物に興味を持ったから、だ。
彼の人生を、最期を、その写真を。ネットを介して全て見た(無論遺体の写真も見てしまったのだが、あれは見ようとして見たのではなく実質無差別テロと同じだった、規制くらいかけていただきたいものである。ちなみにその日から変な夢ばかり見る。少し後悔)。
いやはや、インターネットというのは実に便利なものだ(前述の通りデメリットもあるが)。
そういうわけで代表作である「金閣寺」を読むと決めたわけなのである。
作品名自体は前々から聞いていたが、さてどのようなものなのだろう。
図書館でわくわくしながら本を探し、借りる。そこからは早かった。空いた時間をひたすら読書につぎ込む。なるべく読んでいる間の間隔を失わぬよう、ひたすら読むことに集中した。
そして読み終わった。
それを読んで感じたことを簡潔に纏めたのが冒頭のものなのだが、正直今も変な気分が頭にまとわりついて仕方がない。
自らの心の底にある蓋をしていたはずのそこがぎりぎりと開かれ、露呈していくような気がした。
私は物語についてを語る気は無い、なぜならば読めば分かるからだ。
それを読んだ者の感じたことというのは分からない。だからそちらを優先して書かせていただこう。
作中は難しい単語の羅列で、もちろん注釈付きではあるのだが……あえて読まなかった。ネタバレを食らうといけないので。
読んでいると頭が少しずつ文章に浸かっていくのを感じ、どんどん麻痺していくようだった。
あの時代特有の言葉遣い、文体、魅力的でありながら私をより深く、沼の奥深くにじりじりと引き込むような不快感と不安感、そして焦燥感。
読んだあとの私はぼんやりとした瞳で虚空を見つめることしかできなかったように思う。傍から見ると滑稽でしかないが。
とにかく、ぜひ読んでほしいと思う。
あなたを文学のより深層に誘ってくれることだろう。しかし、落ち込んでいるときに読むのはおすすめしない。
感受性が豊かな方は自らの不安感を助長され死さえ考えてしまうことだろうから。私がそうだった。
しかし次は三島由紀夫のどの作品を読もうか……と懲りない私である。